岡部版画出版

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− 追悼 −

ナムジュン パイクの版画制作始末記

「これであなたも蔵が建つよ」とパイクは冗談をとばした。

1

  巨星がひとつ消えた。偶然とはいえ、新聞でパイクさんの訃報を知ったのは、私たちがたまたま2月1日からショールームKORINOで催すナムジュンパイク展の為、作品展示の準備中のことだった。まさにパイクさんがあの細い腕で、私たちの背中を押してくれているとしか思えないのである。
  1973年の春、私は休暇のためにNYへでかけた。NYに長く住む友人のアーチスト、キムラリサブローが、面白い人物がいるから会ってみたらと、さかんにすすめるアーチストがナムジュン・パイクだった。そこでリサブローとマンハッタンにある有名なウエストベス(芸術家たちの為のアパートメント)に仕事場を借りているパイクを訪れた。壊れかけたTVや、新品(中古か)のTVがところ狭しと積まれているスタジオで、彼は今実験的な仕事をやっているが、糖尿病を患っていて体調がすぐれないなどと喋っていた。しかし本人はいたって元気そうだった。
  目の前でTVの映像がどんな変化をもたらすとしても、彼がいうTVのアートはありうるのかわたしには予想もつかない。そこで、そので切り取ってしまう(版画にする)のはどうかと提案をしてみた。すると自分は映像をシルクスクリーン版画というものを知らないがやってみようということになった。いちど日本にきてもらって打ち合わせをすることになり、彼は「これであなたも蔵が建つよ」と冗談をとばしながら、三人は握手をして分かれた。すでに彼はビデオアートを開拓していく自信に、満ちみちていたのだろう。

葬儀案内状

葬儀案内状

2

  いちど打ち合わせに日本へきてくだいといったものの、そう簡単にはいかない。当時、円レートが360円であったことを考えればすぐに説明がつきましょう。なにしろ私どもは貧乏な工房でしたから。なんやかやと時を稼ぎながら、打ち合わせと版画制作を同時に進めるというアイデアを彼に了承してもらった。多少滞在期間が延びるにしても、打ち合せと制作本番を一度にこなせる利点がある。しかし出来上がった版画に彼のサイン入れが必要なので、どうしてもあと一回、彼を日本に呼ばなければならない。嗚呼。
  1977年の夏、かれは日本へやってきた。再会は仕事のマネージャーをやってもらう事になった田中順君と、カメラマンの野村光俊君と、それにわたしの3人で、広尾にある彼の実兄の家に招かれたような気がする。なにしろ30年も前の話である。瀟洒な家の狭い部屋で、だいたいの版画の説明をしたあと、内容をどうするか等あらましのことを、検討し合った。なかでもJhon Cageのビデオの映像をプレイカード(トランプ)の裏に刷る事や、裏から透かして見えるような版画の提案は、彼が淡々と喋るから余計に度肝をぬかされる。当時、日本にも写真からシルクスクリーン版画にする作家はいるが、パイクさんはビデオを正眼に据えて、ときにユーモアをたたえるアーチストであった。「ところでパイクさん、せっかく日本へきたのだから、あなたのお友達と一席設けますけど、どうですか」と尋ねた。すると彼は一瞬身を引くような態度をとったのをわたしは見逃さなかった。やがて「ぼくね、いまね、あまり派手に動きたくないの」という。わたしは日本における彼の友人をいっさい知らない。なにがどうしたのかまったく分からなかった。わたしたちは固唾を飲んで彼のつぎの言葉をまった。

パイクと岡部

打ち合わせを終わり実兄の家を辞す
パイクと岡部

3

  彼は言葉を選ぶように、金大中(ノーベル平和賞の韓国元大統領)とKCIA(韓国情報部)とか朴正熙(時の大統領)など、断片的にしか聞こえないような話し方をした。いつもそうだが、わたしは彼が小声で喋るときの日本語を十分に聞き取れない。他の人はどうなんだろうか。およそ彼の言っているいることを要約すると、韓国外交部は、外国から日本へ入国する政治、経済、文化の知識人をマークしているということらしい。金大中事件では、反目する元金大統領候補(当時)を日本で拉致して、本国に抑留中という社会背景を考えると、彼が怖れるのも無理はない。しかしです。それなら我々も隠密にやろうじゃないですか、としぶる彼からいま会いたい友人を何人かあげてもらったのである。
  おかしなもので、隠密にという言葉が身にしみこむようになると、会場選びにも影響して、この店は明るすぎるとか、広すぎるとかで会場がなかなかきまらない。新しくスタッフに加わったビデオカメラマンの手塚君が、靖国通りと明治通りが交差する所に、半地下の紫煙がこもる古い店を見つけてきた。すくなくとも外国からの客を迎える場所としてはふさわしくないが、私たちはなぜか隠密にという、くすぐったいような感覚に煽られて、その店を予約したのであった。
  わたしはパーティを知らせるため電話を掛けまくった。相手は、誰もがびっくりしたようで「えっ、パイクさんだって?。いま日本にいる?それ本当?」から始まって、ところでいったいあなたはだれ?と詰問する人まで、さまざまな反応にこちらがびっくりしたものだ。パイクさんの歴史の一頁にいま立ち会っているのかと思うと。わたしまでが興奮するのであった。
  宴が無事に終わったのは言うまでもない。

パーティ

左後ろ向き・パイク  中央正面・山口勝弘
手前右・松本俊夫



パーティ

左・パイク  中央・中谷芙二子
中央後ろ向き・松本俊夫  右端・岡部

4

  わたしたちスタッフは、少ない日程で最良の仕事を望んだ。打ち合せをしたといってもイメージの交換をしただけだから、仕事はむしろぶっつけ本番そのもの。渋谷にあったSONYのスタジオで、パイクさんとわれわれスタッフは、ジョン・ケージ、アレン・ギンズバーグ、マーシャル・マクルーハンなどといったビデオに登場する人たちの、シンセサイザーの画像をひたすら見た。誰かが綺麗だという嘆息もらすと、テープを操作しているパイクさんの指が止まり、カメラの野村君が早いシャッターを押す。パイクさんはテープを操作しながら、マクルーハンをとうとうと喋りつつ、自分は朝が弱いから明日は午後からにしない?、とねじこむ。こうしてスタジオには二日通い、200枚位は撮っただろう。
  その後も何度か昼食を一緒にとりながら打ち合わせは執拗に続いた。昼食は彼の糖尿病もあって大抵すし屋で過ごす。彼の版画に対する関心と糖尿病と金欠の話は日ごとに高まっていくようだった。
  私は撮影したフィルムを製版所に持ち込み、なんとか安くならないかとかけあったが、勉強しましょうといわれた請求書の数字はなにも変わっていなかった。超ど級で差し迫った問題は、彼に対する契約料の支払いが差し迫っていることだ。契約は十種類の版画をつくること。一種類について1,000ドルを支払うという内容のもので、全部で10,000ドルになる。日本円で200万円渡すことになっていたから、当時は1ドル200円位のレートだったのだろう。当時こそ健全であった弊社の経営状態でも、銀行はなかなかうんと言わないのであった。

撮影中

SONY STUDIOにて撮影中のパイクとスタッフ

5

  一旦は帰国するパイクさんに、約束の金銭を準備しなければならない。その日が刻々と迫っていたそんなある日、心当たりの友人を頭に描きながら自宅への帰りすがら、行き付けの酒屋へ立ち寄り、コップ酒をあおっていた。ふと、銀行はなかなか金を貸さないねえ、などと世間話をしていたら、酒屋の主人が、どの位の金額か?と聞くではないか。渡りに船かなと邪まに思わぬでもない。200万位というと、主人は私が保証人になってあげるからと言う。この街にすむようになって数年、普段から付き合いがあるといって、彼にナムジュン・パイクという一度も耳にしたこともないアーチストに支払うのだ、と告げるにはやや抵抗があった。酒屋の主人の度量は、はるかにそれを越えるもので、さらに私を驚かせたのは、酒屋の主人は町の信用金庫の理事でもあったのだ。
  無事200万円を手にした私は、パイクさんと会うために東京のホテルのロビーで待ち会わせ、全額を渡した。パイクさんはその金を無造作に上着の外ポケットへ突っ込んだ。思わず「内ポケットへ入れた方がいいですよ」叫んでしまったが、彼は悠然と「そうね。でもね、お金は内ポケットの方が掏りにやられ易いよ」とまるで他人事なのであった。言われるまでもなく、パイクさんが札束を丁寧に内ポケットへしまう姿は、あまり似合いそうもない。
  私の工房では金銭の工面とは関係なく、終わりの局面に差し掛かっていた。全部4色分解で刷ることになり、シルクスクリーンでは普通敬遠される、100線という細かい網のものを使った。新聞紙上の網分解は60線ぐらいだから、それよりもはるかに密度が高いために、印刷も困難を極めることとなった。パイクさんの再来日(サイン入れのため)の日程にあわせて、工房では毎日が格闘技の連続であった。

<つづく>

マクルーハン

マクルーハン  2枚組  左部分
シルクスクリーン

ナムジュン・パイク展